永禄8(1565)10月初旬、信玄の嫡男義信と飯富寅昌(おぶとらまさ)らによる信玄暗殺の企てが発覚した。その連判状に、津金衆の頭目小池和泉守胤貞の名前があった。

だが、それは他人の手による署名と花押だった。信玄の尋問に対して胤貞は、自身の花押に講じている模倣や偽筆防止策を説明し、身の潔白を証明した。

これを機に、信玄は花押所を制定し、花押に対する高い見識を持ち、これまでも武田信虎や信玄らの花押を謹考している胤貞を統括者とした。

また、武田流花押形体を確立させ、それに基づく武田家一門の花押の調製と管理、武田流花押形体を小池家が一子相伝で伝承していくよう下命した。

ちなみに、この信玄暗殺未遂事件により、嫡子だった義信は幽閉後に自害し、二男は夭逝していて、三男龍宝は視覚機能に障害があり出家していたため、四男勝頼が実質的に嫡子となり、第17代当主として武田家を率いることになった。

信玄の遺志は、17代当主は勝頼の子信勝とし、勝頼は信勝が17歳になるまで陣代(後見人)を務め、その後は出自である諏訪家を継承させるというものだった。

だが、織田・徳川連合軍による甲斐侵攻、武田家征伐へと情勢が激変してくるなか、勝頼は当主として動かざるを得なくなり、「武田家最後の当主」として「武田家滅亡」を迎えることとなる。

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